いつも心に太陽を

セラピストのつぶやき

和みの名古屋②

参拝したあとは、念願の✨✨ひつまぶし!!!!

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熱田神宮から歩いて行ける距離にどうやら渋い良店があるようなので行ってみました🐾

 

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あつた蓬莱軒さん

なんと1時間待ち…( ºΔº )〣

しかしここまで来たからには、、待つべし‼️

 

そして1hours later…🐥

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じゃじゃーん( *ˊᗜˋ* )✨

 

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うわぁ…今見ても美味しそうだ。。香ばしい風味がよみがえる…🥺

サク・ふわ・とろっ・ジュワ〜〜って感じでした😄

ご馳走さまでした🙏

 

さて、『名古屋』の語源について調べてみたんですが

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最も古いものが荘園名として表記された那古屋 続いて名護屋 浪越 など。

江戸時代には名古屋と名護屋が併用され、明治時代の旧国鉄開業時には名護屋と表記されていたようです。

なごやの呼称については諸説あり、

 

気候と風土が和(なご)やかの意味

 

高い波が押し寄せ🌊海岸を越える土地→浪越 など

 

(名古屋城熱田神宮は地盤の良いところに位置しているみたいです。)

 

変わったものではベトナム少数民族チャム族の言葉から来ているという説も😄

 

チャム語で港町をNagar aia(ながる やー)と言うそうなのですが、なぜチャム族?かというのを追っていくと面白い話に辿り着きました(^ ^)

 

平安時代に幡豆海岸(愛知県西尾市)に一隻の船が漂着します。

その船に乗船していた一人である青年は全く言葉が通じず、一緒に漂着して来た唐人によると「彼は崑崙人(東南アジア系)である」と。

 

そして崑崙人は綿の栽培方法を伝え、日本に定住したという伝承があります。

このお話は史実としても残っているそうです。→『日本後紀』 『類聚国史

 

実際のところ彼がどこの国の人なのか正確には不明ですが、

のちに日本語を学び、

自らを「天竺から来た。」と話したそうです。

 

この天竺から来た崑崙人(ややこしい)は、綿の神様として西尾市の天竹神社に祭られています。

今回は来訪できませんでしたが、行きたい場所がまた増えました👍

 

また話が長くなってしまいました。

 

 

夜は矢場とん🐷で味噌カツをいただきました🙏

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ご飯お代わりできましたけど、やめといたら案の定夜中にお腹が空きました😅

 

それでは、最後までお読みいただき、ありがとうございましたm(__)m  

 

hitomi